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耄碌(もう69歳+2)のKoala


by mouroku1949

茗荷と茗荷谷の思い出;10/6、土曜日

先日、茗荷について書いてみたが、ボケが進行しているため、今頃になって追加コメントしたくなった。

俗に「食べると物忘れがひどくなる」といふ「茗荷」。
その名前の由来も何処かに書いたがもう忘れている。
茗荷と茗荷谷の思い出;10/6、土曜日_b0391271_18141837.jpg

「花みょうが」は、晩夏から初秋にかけ発生し、を告げる風味として、私もガキの頃から親しんできた。けれども、実際食べると本当に物忘れが酷くなるのだろうか?

茗荷はシソ・タデ・ワサビなどのように料理に香気や辛味を添える野菜で、香辛菜あるいは香辛野菜といわれている。わたしは「こうしんさい」と読んでいたが、正しくは「こうしんな」といふらしい。
わたしはヘソマガリだから「こうしんな!」といわれると、拗ねてしまうから我ながら困った性格だと思っている。
 香辛とは、自己流解釈すると、第1脳神経ほかを「亢進」する作用だと思っている。
h.rgr.jp/memo/mz0321.htm  によると
>>舌の味蕾は味を識別し、鼻の神経はにおいをかぎ分けます。これらの感覚情報はともに脳へ送られ、脳で1つに統合されることにより風味として認識
とある。
蕎麦やお刺身に不可欠のわさびもそうだが、多すぎてもいけないけれど適度の刺激が食生活を豊かにすることは確かだと思う。

20世紀の古い科学では、ミョウガの成分がどうのこうので、そんな栄養学的見地からこの効用を分析したらしいが、私は狭い考え方だと思っている。
味覚や嗅覚が脳にどう影響するのか、それを総合的に研究できる時代、ITなんとかでビッグデータの解析を誰かがしてくれないだろうか。それこそが、「こころ・精神の世紀」といわれる21世紀の科学だろうとモーソーしている。

いわゆる香辛料と香辛野菜の区別は、ボケ頭の私にはわからないが、前者に関する高校時代の記憶を列記してみる;
イタリア人コロンボ(TVドラマのコロンボを思い出すが、転倒して顔をぶつけるとコロンブス?)の新大陸と、その後二人のポルトガル人によるインド航路の発見で、ようやく香辛料が普及した欧州は、東アジアに比して食生活では「後進国」だったことがうかがえる。
https://www.yasainavi.com/zukan/hanamyouga.htm によると
>>「魏志倭人伝」(3世紀頃)にはミョウガを意味する「襄荷(※)」の文字があり、日本に存在することが記されていた。
※実際の「襄」の漢字にはくさかんむりが付いていますが、文字化けを防止するため違う文字を当てている。 >>>
古代ローマからセージやパセリがあったようだが、上記のインド航路から、貴重品の胡椒がもたらされるまでの暗黒時代は、現代からは想像を絶する世界だったろう。
イタリア料理からの亜流?ともいわれるフランス料理は、ソースが味の決め手であり、日本古来の一般料理、すなわち、旬の食材の持つ味を生かすコンセプトとは、真逆のお料理であったことだろう。

さて、知人からのいただき物のミョウガ。
私の田舎では、ありふれた食材であり、お素麺などには不可欠だし、味噌汁に入れてもいいし、その独特の香りを楽しむことが出来る。

そして、東京小石川の記憶に移る。
私が、信州の田舎から上京したとき、伯母は森川町(今の文京区本郷)に住んでいた。
4-5歳頃、鼻を垂らしていた頃から伯母の家に出入りしていたが、下宿先は西片の丘を越えた竹早だった。森川町からリヤカーで竹早の下宿先まで引っ越しし、茗荷谷という駅から通学した。
「茗荷谷」は、当時何の感慨もない名前だったが、モーロクしかかってくると変にその由来が知りたくなった。
調べてみると、昔は茗荷畑だったとか?えー、そうだろうか。
でも私の幼い頃の感覚では、ミョウガなんて、どこの家にも庭先に生えていたから、わざわざ畑にするのも不自然な感じがする。
あちこち名前の由来について調べるも、たぶん「孫引き」なのだろうか、同じ内容だけ。
私の恩師は、出典・根拠のない説は「先ず疑え」と諭した。
納得できない私は、意地になって探しひとつだけユニークなサイトを見つけた;
ーー>http://dhweb.mods.jp/tfw_02/y_tfw_myogadani.html
>>この土地にあった稲荷さんに祈願すると冥加(みょうが)を得るという言い伝えがあり、谷もあるから冥加谷→茗荷谷となった
筆者はさらりと書いているが、私は、こちらのほうに興味を持つ。

このあたり、すなわち駅を降りて坂道をくにゃくにゃ曲がる径だが、下宿していた頃には全く通らなかった。
けれども、4年前に癌で亡くなった弟が通っていた大学があったので、先日、ぶらーっと歩いてみた。
愚直を絵に描いたような弟は西片に下宿していて、この径を歩いていたことを想い出し、江戸時代の頃の田園、(といふよりここは谷径で畑といへるものは?)と考えつつ当時の風景を想像してみた。



by mouroku1949 | 2018-10-06 20:04 | 日常